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芸能・エンタメ

「たかがゲーム」では済ませられない「ドラクエ」の物語性とは何か(さやわか)

2019.04.04(木)



言わずと知れた大ヒットゲームの「ドラクエ」シリーズだが、実はヒットしているのは日本国内だけだという。ということは、「ドラクエ」シリーズは日本人のものの考え方に多少なりとも影響を与えていたり、あるいは日本人の精神性が反映されているのではないか。ライター・物語評論家・マンガ原作者として知られるさやわか氏が深く掘り下げる。


「たかがゲーム」では済ませられない

 ドラゴンクエスト、通称「ドラクエ」。
 これは日本で最も人気のあるゲームのシリーズのひとつです。他に並び立つものと言えば「スーパーマリオ」や「ファイナルファンタジー」くらいのものでしょう。
 本書(編注:『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』)はこのドラクエを文学としてとらえ、その物語的な意味について考えたものです。

 ただし、本書の目的はドラクエに「文学」という権威のありそうな立派なレッテルを貼って、「ドラクエは文学なのだ、だからスゴいのだ」と賞賛したいわけではありません。そういうやり方は、「文学」にも「ドラクエ」にも失礼にあたるのではないでしょうか。
 しかし、たしかに、たかがゲームに「文学」とは大げさすぎると考える人も多いでしょう。ただ、僕はまさしく、ドラクエを「たかがゲーム」と言って軽視することが正しいのだろうかという疑問からこの本を執筆しようと考えました。
 というのもドラクエは、80年代前半から2010年代の現在まで全作がリリースされ、そのいずれもが100万本以上の売れ行きを見せています。最大のヒットを飛ばしたものになると、400万本以上売れています。
 今の日本で、400万本も売れているコンテンツは、なかなかありません。もしあればゲームに限らず、本でも、音楽でも、映画でも大ヒットだと言われるだろうし、優れた内容を持ったものとして世間も注目するでしょう。
 しかしゲーム作品の場合、数百万本売れたからと言って、小説や映画並みの話題にはされないのが普通です。もちろんヒット作としてニュースになったりはするかもしれませんが、その内容がどんなものであるのかまでは、あまり一般には解説されないし理解もされません。そもそもニュースを見て、「そんなに面白いなら自分も遊んでみよう」と思う人だって、ファミコンが大ブームだった昔ならいざ知らず、今は減っているのではないでしょうか。
 一方で、ゲームが大好きなゲームファンなら、ゲームのことをべらぼうに高く評価するはずです。しかしそういう人たちは愛情ゆえに全面的に絶賛してしまったりもするので、それはそれで多少の問題がある見方だと言えるかもしれません。たとえばゲームを、映画や小説なんかよりも優れていると語ってしまったりします。別に、優劣で論じなくたっていいと思うんですけどね。

 要するに、今の日本だと、ゲームを他のジャンルと横並びのものとして、当たり前に評価することがなかなかできないのです。
 しかし繰り返すように、ドラクエは80年代から数百万本という単位で売れてきました。それだけの数が長期にわたって売れ続けているということは、このシリーズは日本人のものの考え方に多少なりとも影響を与えていると言ってもいいのではないでしょうか。あるいはまた、その作品に描かれている内容には、それが作られた時代の日本人の精神性が反映されていると考えてもいいのではないでしょうか。
 少なくとも、小説が400万部売れたとしたら、しばしばそういう評価をされることになるでしょう。つまり「この小説は日本人の考え方に影響を与えた」とか「この小説には今の日本人のものの考え方が表れている」とか、言われることになります。だけど、ゲームの場合はそうは言われない。みんな「たかがゲーム」だと思っているわけです。なぜなのでしょうか。 「ゲームには小説のような、深い物語性がないのだから当然だ」と考える人もいるかもしれません。しかし前述のように今のゲームが何を描いているのか知らない人が多いのですから、本当にそれらの作品に深い物語性がないのかどうかもわからないはずです。
 本書では次章から詳しく触れますが、少なくとも、本書のテーマであるドラクエについて言えば、ゲームで物語を表現するということを追求するところからその歴史は始まっていると言うことができます。したがって、それはシリーズを追うごとに、必然的に複雑な物語性を含んだものになってもいるのです。ゲームが好きかどうかに限らず、どのくらいの人がそうしたことを意識しているでしょうか。

ドラクエがポップカルチャーに与えた影響

 そしてその物語は、日本人のものの見方に確実に影響を与えてきました。単純な例を挙げれば、私たちが思う「ファンタジー世界」を舞台にした物語は、その基礎的な部分がドラクエの世界観によって作られているに違いありません。多くの日本人は「勇者」がかっこよく剣を振るい、必殺技のような魔法を繰り出して「魔王」と戦うようなファンタジー作品を平凡なものとして眺めています。
 しかしそういうファンタジー観というのは、80年代前半、つまりドラクエが成立するまではありませんでした。そもそも西洋のファンタジーというのは、厳密にはそんなヒーローもののアニメのようなものではありません。中世の剣士をモデルにした主人公が剣を振るうかもしれませんが、もっとずっと現実的なものです。
 こうした世界観をドラクエだけが作ったとは言い切れないところはあります。しかし、そういうものを日本人の一般層にまで普及させて、誰もが当たり前のものだと考えるほどにさせた筆頭に挙げられるのは、ドラクエだと言って差し支えないでしょう。

 そういう意味では、近しいジャンルであるポップカルチャーに与えた影響は、かなり色濃いものがあると言えるでしょう。たとえば今の若者が好んで読んでいるライトノベルなどの作品を見るとどうでしょうか。近年の流行は、現実世界で暮らす平凡な主人公が、ふとしたきっかけでゲームのようなファンタジー世界へ転生して、そこで冒険をすることになる、という筋書きのものです。こうした小説が多数掲載されているインターネットの小説投稿サイト「小説家になろう!」の名をもじって、この手の小説は「なろう小説」と呼ばれることもあります。
 しかしなろう小説で重要なのは、異世界に転生した主人公だけが、その世界をゲームのようなものだと気づいているというパターンが多いことです。つまり主人公は、ゲームを攻略するようにしてその世界でうまく立ち回り、冒険を進めることができる。たとえば2016年にアニメ化されて好評を博した、長月達平の『Re:ゼロから始める異世界生活』(MF文庫J、2014)や、暁なつめの『この素晴らしい世界に祝福を!』(角川スニーカー文庫、2013)は、この手の設定をうまく利用した作品でした。

 このように、平凡な主人公が異世界へ渡った結果、そこでは優れた才覚を発揮するという物語で、今の若者に確実に影響を与えたファンタジー作品には、もうひとつJ・K・ローリング作で大ベストセラーになった『ハリー・ポッター』シリーズ(1997-2016)があります。むしろ異世界へ転生して大活躍するという展開が定番のものになったのは、『ハリー・ポッター』シリーズが今の若者に小学校時代から大きく影響を与えてきたせいだとすら言えます。
 しかし、なろう小説の場合、異世界へ行ってからはあからさまに「ゲームのような世界」で冒険することになるのが興味深いです。
 この「ゲームのような世界」は、まさしく自分が勇者になったり、目的が魔王を倒すことだったりするような、ひどく「わかりやすい」ものであることが普通です。そういう設定を幼稚なものだとしてさげすむ人もいるでしょう。しかしここで考えるべきなのは、我々がなぜそれを「わかりやすい」と考えるのか? ということです。その「わかりやすさ」とは、どこに由来するのでしょうか? それはひとえに、年代前半からドラクエが、私たち日本人の心にファンタジーものの基礎知識として存在したからではないでしょうか。

日本人の感性との特殊な結びつき

 しかも、面白いことにドラクエは、海外だと日本ほどに売れているわけではありません。たとえば2009年発売の『ドラゴンクエストIX 天空の守り人』は日本国内で430万本以上売れています。しかしこれが世界市場になると、各国を合わせても105万本です。つまり、明らかに海外より日本で売れている。
 海外でもそれだけ売れていれば十分だと思うでしょうか? しかしたとえば、同じ2009年に発売された『ファイナルファンタジー』(スクウェア・エニックス)は、日本で190万本以上、海外だと660万本以上を売り上げています。2006年発売の『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』(任天堂)は日本では60万本ですが、世界で880万本以上売れています。
 だいたいドラクエは、1990年に発売された『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』までは海外でも発売されましたが、その後は2000年発売の『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』まで、海外版が作られませんでした。もし海外でもヒットしているシリーズだったなら、そんなことありえませんよね。
 つまりドラクエは、明らかに日本で支持されている作品だと言うことができるのです。その理由には、作品のゲーム性や流通のあり方、メーカーの姿勢のあり方など様々な理由があるに違いありません。しかし本書ではとりわけ、その理由をドラクエで描かれている物語が、日本人の好みやすい、非常に日本的な感性で描かれた作品だからこそのものだと捉え、その内容を詳しく考えてみることにしました。
 あるいは、鳥山明による漫画っぽいキャラクターデザインを、海外の人は受け入れないのではないかと考える人もいるかもしれません。海外の人は日本の漫画やアニメの絵が苦手で、受け付けないという意見は昔からよく聞きます。
 しかし、少なくともドラクエについては、必ずしも絵のせいではないと言えるでしょう。なぜなら鳥山明の漫画『ドラゴンボール』は単行本が30カ国以上で翻訳出版され、アニメも70カ国で放映されています。いまだに人気が衰えることのない、大ヒット作なのです。ということは、むしろそこでドラクエの特殊性を際立たせているのは、絵よりも物語の方だと言っていいはずです。

 海外に受け入れられないのは、コンテンツ産業としては、それはそれで問題なのかもしれません。しかしそういう作品だからこそ、日本人について考えるのには最適なものだと言えるでしょう。つまり、ドラクエの物語には明らかに日本的なものがあり、そして日本人の好むものが込められているに違いない。ならば、流行になった小説が語られるのと同じように、そこにどのような時代の意識があるのか、どんな日本人の精神性が表れているのか、あるいは作者は何を考えていたのかを考えてみよう。言ってみればドラクエに対して素朴に文芸批評的な試みをしてみたのが本書になります。

堀井雄二はなにを描こうとしたのか

 したがって、この本はいわゆるゲーム評論の本とは全く違います。たとえば本書ではドラクエを文学として扱うために、もともとの作者でありドラクエのシナリオを執筆した堀井雄二という人物だけを極端に掘り下げて、作品に関連づけて語っています。今時のゲームというのは数十人から数百人単位のチームで作られることも普通ですし、また今や堀井雄二は総監督的なポジションとなっているので、物語に全面的に関与しているとは言えないという人も多いでしょう。
 しかし映画を映画監督の名前で語るように、本書はドラクエを堀井雄二の作品として位置づけ、物語に彼の思想が現れたものとして語ることにしました。こうすれば、一人の作家がこの作品に何を込めようとしたのかを、シリーズ全体を通して辿(たど)ることが可能です。
 そういうわけで、堀井雄二以外の人物、たとえば初期にプログラマーをつとめた中村光一やキャラクターデザインの鳥山明がどのような創意工夫を行ったかは、本書ではあえて書いていません。もちろん開発体制がその後どのように変遷したかなどもわずかにしか触れていません。

 あるいは『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』や『ドラゴンクエストモンスターズ』のように、シリーズのキャラクターや世界観を使った、数多くの派生的なゲーム作品についても本書は言及していません。また漫画化やアニメ化、小説にいたるまでの多種多様なメディアミックスもなされました。本書では、そのように限りなく拡散していく一大ジャンルとしてのドラクエにも、わずかにしか触れていません。
 そういうことについては、いわゆるゲーム評論や、ポップカルチャー批評の本で語るのがふさわしいでしょう。本書の目的はそうではなく、ドラクエの物語を、他ジャンルの物語と同じ俎上(そじょう)に載せて、しかもとりわけ文学として位置づけながら、語ることなのです。

 付け加えておくと、ここで言う「文学」とは何を指すのかということについても、その定義には言及しませんでした。しかしこれについては、本書はドラクエを読み解くことで、文学的であるとは一体どのようなことかについて語ることができると確信しています。冒頭に記したように「文学としてのドラクエ」を語るということは、「ドラクエを文学の仲間に入れて担ぎ上げる」ことではありません。ドラクエを語ることで、当たり前のように文学の輪郭を描き出すのが、本書の目的です。
 この目的に従いながら、本書はドラクエを読み解いていきます。
 まずは手始めに、堀井雄二の学生時代から辿っていきましょう。


以上はコア新書『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』のまえがきです。 現在、電子書籍版は各販売サイトで販売中です。配信先は文末をごらんください。


~目次~

序章 文学としてのドラゴンクエスト
「たかがゲーム」では済ませられない
ドラクエがポップカルチャーに与えた影響
日本人の感性との特殊な結びつき
堀井雄二はなにを描こうとしたのか

第一章 ドラクエ前夜 早稲田大学からポートピア連続殺人事件
学生運動の終わり
早稲田大学漫画研究部
村上春樹が近くにいた
オタクライターの先駆けに
パピコンでプログラミング
鳥嶋和彦との出会い
『ラブマッチテニス』に見えるドラクエの原形
物語を体験するアドベンチャーゲーム
『ポートピア』は謎解きじゃない
漫画の面白さをゲームに

第二章 キミが勇者になる ドラクエの誕生
不要なダンジョン
アメリカでRPGを見た
RPGとアドベンチャーの違い
役割性と物語性
ロールプレイとは「ごっこ遊び」?
漫画を体験させる
『指輪物語』から切り離された日本のファンタジー
漫画のゲーム化
めんどくさいリアルはいらない
物語性よりもプレイヤーが楽しいように
キミと主人公を同一化させるロト三部作
主人公そのものになれるのか?

第三章 堀井雄二と村上春樹のデタッチメント ロト三部作
現実から離れた村上と堀井
村上春樹の漫画性
〝ナマの現実〟を描くことこそが文学
純文学もキャラ小説
文学は「現実」を描けない
『世界の終り』と『ドラクエIII』
現実世界の下に広がるアレフガルド
日本人の価値観の変異
虚構によって現実に向き合う
ドラクエ世界へのデタッチメント

第四章 大きな物語の消失天空三部作
物語的な形式をとったドラクエIV
群像劇だから描けた今までにない個性
自分の「登場」する物語
AIがキャラクターに自我を与える
人生を描くドラクエV
主人公が勇者じゃない
人生のような錯覚を生み出す分岐
天空三部作に通底するもの
ドラクエが抱えた奇妙な矛盾
大きな物語が消失した1995年
ポストモダンとしてのドラクエVI
IIIとVIの「ふたつの世界」の差異

第五章 「ドラクエらしさ」の集大成と新しい時代へ ドラクエVIIからドラクエVIII
時代との伴走から降りる
アニメに近づく画面演出
過去最長のシナリオで殺伐とした世界を描くドラクエVII
ファイナルファンタジーの暗さとの違い
不意に現れる暗い文学性が「ドラクエらしさ」をつくる
グランド・セフト・オートが開いた自由なゲーム
ドラクエVIIIは自由と物語を両立できたのか
新しい時代の礎

第六章 ネットワーク上のもう一つの人生 ドラクエIXからドラクエX
80年代から抱いていたオンライン化への野望

違う人生を送るための世界
多くのプレイヤーが同時に主人公になれるのか?
ドラクエIXの破棄された構想
現実世界を冒険する「すれ違い通信」
ドラクエIXはドラクエらしくない?
ドラクエXで実現した「みんなが主人公」
失敗作だという誤解

終章 そして伝統へ ドラクエXI
「かのように」思わせる錯覚
ドラクエらしさが宿るもの
ドラクエの未来

(※お断り:記事配信先で文字化けを防ぐため、Web上ではローマ数字を英字に変換しております。また、データは書籍刊行時のものです。なにとぞご了承ください。)

◎主要配信先は以下でご確認ください(リンクしないサイトでごらんの方はブラウザにURLをコピペしてください)。
 http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_019.html

なお著者・さやわか氏の新刊 コア新書「名探偵コナンと平成」は書籍で2019年4月3日より全国書店・ネット書店で発売中です。
http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_028.html

 

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